松岡里果 Birthday Live

The Giving Tree -咲かせたい花-

開花まで…

※終了しました

2016年4月15日、渋谷区文化総合センター大和田さくらホールで
ホールワンマンライブを開催することを決めました。

そんなある日、お世話になっている方からこんな言葉を投げかけられました。

「なぜホールワンマンをやるの?」
「どうしてキャパを大きくしていきたいの?」

わたしには咲かせたい大きな大きな夢があります。
魂の目的があります。

将来、音楽を通して携わりたいことがあります。
だから、決意したのです。

伝えたいこと、表現したいことをあらためて言葉にしたい、そう思いました。

よかったら最後まで読んでもらえたら嬉しいです!

奇跡。

昨年2015年4月15日、さくらホールの2階上にある伝承ホールにて
「KEY」というワンマンタイトルをかかげ、
400人規模ともなる会場でバースデイ単独コンサートを開催しました。

音響、照明、舞台監督さん、スタッフ、ミュージシャン、
100万円単位のお金が動く、個人でやるには大それた試みでした。

不安も沢山ありましたが、希望と願望が上回りファンの皆さん、仲間に驚くほど支えてもらい、
その日、沢山の、本当に沢山のお客様のひまわりで会場は溢れかえっていました。

奇跡でした。
そう、わたしはこの日、この手に、皆さんからたくさんの種をいただいたのです。

間違いなく、私にとっての転機となりました。

大嫌いだった世の中、自分。

月日はさかのぼります。
物心がついた頃、「なんで私は生きているんだろう?」と
いつも自分がこの世から居なくなるイメージばかりして過ごしていました。

でも、一歩外に出るとそんな本音を隠してヘラヘラ笑う、
所謂「悩み事のなさそうな子」として振る舞っていました。

大嫌いでした。
世の中もそんな自分も何もかもが。

でも、それと同時に好きになりたかった。
全てを好きになりたくて。

そんなとき、ドラマや映画、音楽の中にいる「ヒーロー」に憧れ、
気付いたら虜になって夢見る夢子、今の松岡里果が出来上がりました。


夢の中に居ればイメージするだけで色んなことが叶います。
でも、夢から覚めると現実は薄暗くて貧しくて寂しくて無力で哀しかった。

夢を夢のままに終わらせなければ
このキラキラはずっとずっと…続くんだ。

そのためには自立しなくては!
自分に力をつけなくては。
そんな風に芽生え出した強烈な自立心。

そんな衝動は日に日にエスカレートし、幼稚園の頃から謎の脱走劇がはじまります。
小学生の頃には警察沙汰にもなりました。

脱走癖。

小さい頃、大好きだった小説があります。
映画「ネバーエンディングストーリー」の中に出てくるミヒャエルエンデの「果てしない物語」。

冒険が大好きでした。
物語の中の冒険は、いつも、あらゆる困難を乗り越え、
いつも最後は困難にも自分にも打ち勝つからです。

ドラえもんの「どこでもドア」じゃないけれど、
なぜか幼稚園の門をあけたら、そこには冒険が待っているような気がしていた。

でも私の冒険は、道に迷っておまわりさんに泣いて助けを求める情けない結末ばかり。
それでも何度、脱走という名の「冒険」へ繰り出したことか。


小学生の低学年、母と大げんかをした。

「何で私を生んだの!?探さないでください。」

そうチラシの裏に書きなぐり、本当の脱走をしてしまった。
家にあったボストンバッグに貯金箱とタオルケットを殴り入れ、
翌日、母が仕事から帰る前に、夜中に家を飛び出した。

行くあてもなく、結局、公園の遊具の中に身を潜め、タオルケットにグルグル巻きになって、
薄暗くなる夜にドキドキしながら眠ってしまい、気付いたら朝になっていた。

捜索願い、小学校の連絡網、母の必死になって私を探す顔。
ついには警察沙汰に発展した。
何だか自分のしてしまったことに怖くなって、恐る恐る家の方へ帰った。

初めての長い長い脱走劇でした。
帰るつもりはなかったのに、結局帰りたくなった私は自分になぜか安心したのを今でも思い出す。

この日を機に「小さな冒険」は辞めた。
(でも次やるなら、もっと覚悟を決めてやるんだ、ともこっそり考えていました…汗)

今思えば、それほどに「自立心」を手にするために必死だったのかもしれない。


18歳、高校卒業とともに、中高と貯めたお金を握りしめ、親の直筆を真似て勝手に契約。
奈良で1人暮らしをスタート。

数ヶ月後、オリジナル曲が1曲も無いのに、
「歌手になるならホールだ!」という勝手なイメージのもと、
地元の大和郡山城300人ホールをかり、初めての単独コンサートを開催。

さらにその4ヶ月後も、数曲のオリジナル曲と自主制作CD-Rと、
自分用のオリジナルTシャツを見よう見まねで作り同じホールでライブ開催。

でも同じことばかりしていてもだめだ…と上京を決意するも、
自分の根性はどれほどのものかと疑った私は、
力試しにと1ヶ月間、浅草でのカプセルホテル生活を試みることにしました。

1ヶ月間のカプセルホテル生活。

浅草を通るたび、今でもあの時代を色濃く思い出すくらい、10代の私には刺激的な生活でした。

1ヶ月間、限られたお金で生活をやりくりするのは、
お笑い番組の黄金伝説にでも出てる気分でワクワク。

たまに寂しくなったり、虚しくはなったけれど
自由になれたようでいつも解放された気分だった。

カプセルホテル生活は自分の上京への気持ちを確かめるための挑戦だったので、
いくつかルールを決めた。

ルール1.お金を引き出せるようなカードは持たない。最初に持った金額の中でやりくり。
ルール2.親はもちろん、友達にも東京のカプセルホテルにいることは言わない(心が揺れ動く恐れがあるから)。
ルール3.何かあったときのために、1人だけはちゃんと伝える。

現金8万円を握りしめ、奈良から1ヶ月間のプチ上京をしました。
カプセルホテルは1泊2,600円。

毎日宿泊すると食費が出せないので、
何泊かはファミレスのドリンクバーで夜が空けるのをまったり、ネットカフェで仮眠をとる。

毎日、食べる量は
・500mlパックの珈琲牛乳
・朝昼…おにぎり一個
・夜…浅草の100円均一で買うカップラーメン
・地下鉄の無料の水

これでも、おにぎりやカップラーメンは我慢する日を作らないと
交通費が出せなくなるので大変だった…。笑

カプセルホテルの中でも暗黙のルールがあった。
扉となるカーテンレールの閉め方など、細かいルールを、そこに先に住む方達から怒られながら学んでいくのだ。
辛くて涙が溢れたときも、声を出して泣いたら迷惑になるから音を立てずに号泣するというスキルが身についた。


そのカプセルホテルには、大浴場があって、沢山の出逢いがあった。

田舎には仕事がないから東京で出稼ぎに来ていた「おばさん」。
洗面台で髪を乾かしていたら話しかけられた。

キレイな、カプセルホテルが似合わない「双子の綺麗なお姉さん」たち。
2人は朝になると会社の制服を着て香水をつけ、ピアスを揺らし、OLさんになってカプセルホテルを出て行く。
ある日、受付のスタッフから「ここのホテルの住所を住んでいる場所にされたら困る」と注意されていたのを覚えている。
その双子にどんな事情があったのかは想像するしかない。

書き出せばキリがないくらい、色んな人が色んな事情で恐らく、
カプセルホテルに毎日帰っては、出て行く生活をしていた。
一歩外に出れば、普通を装い笑ってる彼女たちの姿に私は密かに勇気をもらうことができた。

上京する決意がついた。

家族のこと。

19歳、家出同然で上京。
その後、四年間は親にこの事実を内緒にし生活していた。

東京での生活も慣れはじめた頃、
ストリートをキッカケに、インディーズレーベルからのCD発売や、
東京での度重なるワンマンなどをおこない、少しずつ形になっていった。

思い返せば家の事情で住むところも定まらず幾多の苦難を強いられた幼少時代。

その失われた時を少しでも取り戻そうと東京に母を呼び、
一緒に暮らし始めるもやはり現実は厳しく紆余曲折の末また一人で暮らすことに・・・

救急車とお友達。

追い打ちをかけるかのように、わたしの夢に影が落ちました。
口中の口内炎。激しい目眩。冷や汗。激やせ。
メニエール病と診断されました。

もう死んでしまいたいと思った。

幼少期の負のイメージが色濃く膨れ上がり、自分で自分を追いつめる日々が約1年もつづきました。
頻繁に救急車に乗りました。
辛さも行き過ぎると人は泣けなくなります。

心を失いました。

そんな辛い日々を救ってくれたのが「水彩」という楽曲でした。
不思議と、この曲を歌うときだけ泣けました。

涙を流すことの大切さを知ります。

そして、沢山の涙とともに完全復活をしたのは2010年秋頃でした。

CMソングに決定。

その約半年後、「涙のゆくえ」という楽曲が「向日葵」というタイトルに生まれ変わり
大手旅行会社JTBさんのCMソングに大抜擢されました。

大手広告代理店さん、事務所さんに混じってのコンペだったけど、
JTBさんの偉い方?が気に入ってくれたようで、連絡をいただいた。

無名の私の歌声がTVから流れてきたときは鳥肌ものでした。

「知合いからメールが沢山くる。これか。これが、よく言うやつなのか」と
嬉しくなったのを今でも覚えています。

光が見えた瞬間でした。


私はいろいろな経験をしてきたおかげで、
今思えばお金を積んでも買えない沢山のアイテムを手に入れてきたんだ。

3色しかない絵の具しか持っていなくても、
少しずつ色鮮やかな絵を描くことができるようになっていった。

言えばキリがないくらい
色んな日々が私を今の私へと繋いでくれました。

いつも音楽は、悲しい記憶を希望に変えて未来へと「受け継ぐ」大切さ、
また、悲しみ、悔しさ、怒り、情けなさ、色んな気持ちと直面させられる度に
「受け入れる」強さを与えてくれたように思います。

思わず口から飛び出た言葉。

そして2015年6月。
伝承ホールでのワンマンを終えた数カ月後私は、
また「ここでやりたい」と渋谷の同会場に出向いていました。

「来年の4月15日、また伝承ホールをお借りしたいのですが、当日、もしくは、その前後は空いていますか?」

「伝承ホールは全日、埋まってますね」

肩を落とすも束の間、次の瞬間にとんでもないことを口にしていた。

「…さくらホールは空いていますか?」

「さくらホールは空いてますよ」


私の誕生日当日の4/15。
なんと、その日だけ4月の中で唯一、3区画(朝昼晩)すべてが空いていたのだ。

4/15の欄が、真っ白に光って見えました。
気付いたら私は申し込んでいました。

そして、待つこと1ヶ月。
無事に審査が通ったと連絡が入りました。

伝承ホールの2倍のキャパになるさくらホールで開催することが決定してしまいました。


ただただ導かれた。そう思いました。

もちろん、満員にしたいし、借金は負いたくないし、
伝承ホールの時みたいな景色を見たいけど、なんていうか数じゃない。

この会場を押さえられたことから、奇跡は始まっていると思っています。

私はいつも、ゴールから決めてきました。
目標に向かって進む、というよりも、ゴールを決めるからスタート地点に立てるんだと思います。


咲かせたい花を見つけてしまった。

ただこの種は、昨年2015年4月15日、あの日の私に愛をくれた皆さんがいたから蒔くことができました。

ひとり、ひとり、
ひとひら、ひとひら、

出逢い別れ、つながり、一人一人のあなたがいるから

桜のように
咲き誇ってみたいと思いました。

わたし1人では
この木は木のままです。
誰もが振り向いて目が離せなくなるくらい、
美しく儚くも、沢山の人の心を救える花をつかせることをまだ知りません。

どうか私と一緒に、
「ひとひら」になってもらえませんか?

2016年4月15日(金)
桜開花19:00
渋谷さくらホール

お待ちしております!
愛を込めて*・。*。・*・。*。・